『キリスト教は邪教です!』
F・Wニーチェ
適菜収訳
講談社+α新書
中世ヨーロッパは戦争の時代です。戦争の根にあるのが宗教で、宗教をやめてしまえば戦争もなくなるわけですが、共同体の精神に深くはいりこんでいる以上、宗教を解体するのは容易ではありません。どうせ解体しても、またぞろ集まり新たな宗教が形成されるのは目に見えています。そのため宗教それ自体を否定するのは、当時の現実的な感覚からすれば得策ではありませんでした。
では、戦争をなくすためにどうすればいいか?
ヨーロッパ知識人たちは頭を悩ませました。そこで考えだされたのが、宗教が規定する精神だけをとりだせばいいのではないか、ということだったのです。宗教がもつ精神だけをとりだし、当該の宗教に属さない人であっても理解できるようにする。宗教のなかにあった精神を、普遍性をもたせた概念として規定しなおすという作業が、哲学の背負った課題でした。
哲学が誰でも理解できるような一般的・普遍的な考え方をめざすのはそのためで、宗教から立派な精神から概念だけをすっぽり抜き取ることで、異なる価値観の対立をなくそうとしているのです。哲学の扱う概念が非常に抽象度が高いのは、精神のひとつ上の概念をめざすからだといえます。 ということで、近代哲学にはキリスト教批判を含む面がすくなからずあります。
そして宗教批判とかキリスト教批判の到達点にあるのが、かくいうニーチェその人なのです。
革命か狂人か
ニーチェはキリスト教を批判します。批判というのはまだかわいらしく、はっきりいえば虚仮にしているといっても過言ではありません。
虚仮の仕方もおおっぴらで、惜しげもなく、名誉毀損で訴えれるくらいに苛烈です。キリスト教なんて同情しておいて人を集め、権力をつくって自らそこに居座ってるだけです。だからキリスト教に集まってくる人は神経が過敏な人ほどいい。
神経症患者であればあるほどキリスト教はウェルカムなんです、とか平気でのたまいます。さすがアンチキリスト。辛辣です。
例えていうなら何も知らない女子高生がローマ法王の面前で「キモイ」というみたいなもの。
ニーチェはキリスト教にむかって「キモイ」と云い放ちます。そして「キモイ」と「なぜキモイ」かを延々と語るのです。
媚びない主張
たいていニーチェみたいに権力批判する人って、権力を批判することでその反対軸にいる民衆の味方になったりするのですが、ニーチェはそのへんも民衆にも媚びることをせず、ある意味、主義主張が徹底しています。
お前ら、甘えてんじゃねーよと。
民衆に対するアンチテーゼはルサンチマンとなって現れます。お前らが弱い顔して民衆ぶってるからキリスト教がのさばるのだ。弱いことは善いことじゃねえ。弱さは自分でひきうけ、自立しなきゃ意味がねえ──てな感じに。
民衆に対しても追撃の手を緩めるないので、ニーチェはある一面においてはものすごくピュアであるにも関わらず、確実に誤解をまねいて嫌われるタイプです。云ってることはあってるけど、近くにいたら絶対に厭なヤツです。論理や思考もさることながら、ハイテンションなニーチェの「タッチ」を軽やかに演出したところに、「キリスト教は邪教です!」の価値があるとおもいます。