小説以外のもの 書評

不屈の棋士│大川慎太郎

「不屈の棋士」
大川慎太郎
講談社現代新書

将棋ソフトについて棋士たちにインタヴューし、それをまとめた内容です。昨今話題になっている将棋ソフトは、いろいろな立場、見方、接し方があり、肯定否定ないし好ききらいひとつとっても、統一した見解がありません。

当然ながら、棋士たちも、将棋ソフトをどうやって使いこなしていくか、未だはっきりしない状態です。

「不屈の棋士」では、そんな棋士たちの混沌が垣間見られます。興味と苛立ち、歓迎と嫌悪、可能性と否定。反応はさまざまです。

■黒船襲来

将棋ソフトが、すごいことになっています。
まずは過去の経緯を、簡単に振り返りましょう。二◯一二年に、第一回電王戦が開かれ、このとき当時、将棋連盟会長を務めていた米長邦雄が将棋ソフトと対戦しています。結果、米長邦雄は、将棋ソフトに敗れるのですが、このとき米長自身、引退から八年が経過し、棋士がソフトに敗れたといっても、それほど衝撃はありませんでした。

■団体戦

第二回以降の電王戦は、団体戦で行われました。第二回の電王戦は、阿部光瑠が将棋ソフト「習甦」に勝利、山本一成が「ポナンザ」に敗北、三浦弘行が「GPS将棋」に敗れトータルで一勝二敗の負け越し。

第三回の電王戦は、レギュレーションの変更があり、将棋ソフト側は、事前に出場棋士へソフトを提供することが義務付けられました。これにより、棋士は、ソフトに対し事前練習ができるようになりました。にも関わらず、結果は、一勝四敗と惨敗を喫します。

翌年の電王戦ファイナルでは、棋士側は若手の精鋭を結集し、さらにコンピューターに詳しいコーチ役の棋士をつけて、万全の体制で臨みます。その甲斐あって、三勝二敗と勝ち越し、棋士側はかろうじて面目を保ちます。

将棋ソフトが、棋士を凌駕するのではないかと囁かれるようになったのはこの頃です。

■電王戦

さらに、現在の電王戦は、棋士と将棋ソフトでそれぞれ予選をおこない、優勝者と最強ソフトが、二番勝負を戦う形式をとっています。ちなみに棋士代表を決める戦いは「叡王戦」と呼ばれ、エントリーした棋士によるトーナメントがおこなわれています。

将棋ソフトの正確無比な差し回しや能力の高さについては、広く知られていて、棋士たちもその実力を認めています。将棋ソフトと棋士との対戦は別物ですが、それでもあえて比べるなら、将棋ソフトのほうが優勢で、棋士たちが、やや追いこまれているように見えます。一流の棋士でも、将棋ソフトに勝つのは難しいのです。

それでも棋界は羽生さんなら勝てるのではないかと、不世出の天才棋士にのぞみを託しています。かなり切羽つまった状況。ほとんど追いこまれています。

■勝利宣言?

じつは情報処理学会は、二〇一五年十月、事実上、ソフトはトップ棋士に追いついたとし、プロジェクトの終了を宣言しています。では、将棋ソフトは、棋士を追い越してしまったのか? 棋士はソフトとどのように向きあっているのか? それが、この著書の語るべきところとなっています。

■帝王羽生

現在の棋界を語るうえで、この人を外すことはできません。まずは、羽生棋士のスタンスを探っていきます。

どのソフトを使っていますか? との質問に、羽生さんは、何を使っているのかは言いませんと答えています。自身の発言の影響力をわかっていて、迂闊なことは口にしない。あくまで慎重な姿勢を貫いています。

立場が立場なだけに、これは仕方ないとおもいます。しかし、逆にいうと、いかに将棋ソフトがセンシティブな問題をはらんでいるか、そのことがよくわかります。インタヴューのなかで印象的だったのは、

”「ソフトの評価を元にした質問が記者から来ますから、間接的に指摘をたくさん受けていることになります(笑)。大体みんなソフトにかけていますよね。ハハハ。明らかに自信ありげな文面で来るんですよ」”

と答えていたこと。否定も肯定もせず、飄々と受けこたえするさまは、いかにも羽生棋士らしい柔らかさです。

と同時に、この回答には、将棋ソフトに対する柔軟な見解が含まれています。羽生棋士は、直接間接を問わず、ソフトの影響を暗に認めている節があります。本文中の表現を借りるなら、”「大いに興味を持ちつつも、はっきりと距離を置いて」”いるのです。少なくとも、ネガティブな感情はもっていない。

■渡辺竜王

では、羽生善治とならびたつ棋界の雄・渡辺竜王は、将棋ソフトをどう捉えているのでしょう? 渡辺竜王は、ずばり”「興味がないわけではないが、どうしても戦いたいわけではない」”といっています。この発言は、一見して中立に見えます。

ですが、
”「人間の勝負とはまったく別物ですから。トップ棋士同士とはいえ、やはり人間の将棋はミスありきなんです。でもコンピューター将棋はミスがないから、事前にソフトの弱点を探る練習が大事になる」”

と語っています。将棋ソフトと人間を分けているのはたしかです。そこには強いはつよいが、別物だから比べてもしょうがないという主張があります。
そのうえで、将棋ソフトを使うかどうかについて、
”「つまりソフトを使っていた人はみんな知っていたんです。自分一人だけがソフト発の有力な新手を発見することはないんですよ」”

と断りつつ、
”「たとえガンガン使ったとしても後ろめたさはないと思います。だってみんなやっているわけでしょう。もし自分が強いソフトを簡単に入手できる状態になったら、当然みんなも持つでしょうから、どううまく使うのかも勝負のうち、という話になりますよね」”

と述べ、将棋ソフトの能力の高さ、便利さを評価しています。ソフトをつかって強くなるなら、使うべき───というのが竜王の見解です。至極、現実的な考え方です。

渡辺棋士の根底には「強ければいい」という信念があり、研ぎ澄まされた棋士の物差しによって、その強さが測られています。では、将棋ソフトの強さとはなにか?

”「この変化は詰むか詰まないかがわからないから踏み込めない、という話がソフトにはないわけでしょう。つまり人間が持つ「怖さ」という感覚が存在しない。それはちょっと違いますよね。強いんだろうけど、別物というか」”

ここに、人間とソフトのあいだに明確な線引きがあります。そしてここに、将棋ソフトの問題を棋士側に持ちこみたくないという志向が見受けられます。自分は将棋ソフトと戦っているのではない、棋士と戦っているのだ。それが竜王の矜持なのです。

■最強の打撃機械

この話をきいて、ふと、将棋ソフトは野球でいうところの、バッティングマシンではないかと思いました。渡辺竜王は、バッティングマシンに強い打者になりたいのではなく、勝負を決める四番になりたいといっているのです。

もちろんバッティングマシンを打ちこむ打者は、高い確率で強打者となるため、正の相関関係が存在します。しかし、だからといって、プロ野球選手が、バッティングマシンに強い打者を目ざすとはおもえません。どんなに球が速くても、機械は機械。機械相手に真剣勝負をいどむほうが、どうかしています。

プロ棋士からみて、将棋ソフトがまったく別事象に見えるのは、そういった関係があるからではないでしょうか。

■新鋭・千田棋士

将棋ソフトを新しいツールと捉え、積極的に取り入れるのが新世代だとすれば、その代表格が千田翔太棋士です。

千田棋士は”「基本的に棋士はソフトに抜かれている」”と断言しています。あまたいる棋士のなかで、この感覚は突出しています。

なぜここまでソフトを称賛するかというと、将棋ソフトには数値化できる機能───レーティングが備わっていて、レーティングをみれば、試行錯誤の方向性が読みとれるからです。人間の棋譜には「評価値」がなく、どこで形勢に差がついたのかがわかりにくく、そのため、棋譜の理解によって個人差が出ます。

しかしソフトの棋譜には評価値があるため、形勢のよしあしが、数値によって判断できるのです。将棋ソフトは棋士よりつよいのかという以前に、将棋ソフトはつかえる。この感覚を、千田棋士はもっています。

事実、
”「将棋に強くなるためには、この時にこうするといい、悪いというパターンを自分の中にたくさん蓄積することが大事だ。ソフトと使えば、従来の方法より圧倒的に素早く吸収できる」”

とのべています。実に割り切った考えです。

■終盤でのミス

また千田棋士は、人間は終盤力に問題があり、自玉の安全性を把握する能力がソフトに比べて著しく低いと指摘しています。

”「今後は終盤力の強化をとりあえず真っ先にやります。そのためには、ソフトの棋譜で「自玉がこの形でこうやったら大丈夫、こうやったら危ない」というのを評価値を見ながら抽出する。玉形を少しずつ変えてサンプルを増やす。それをたくさんやることで自玉の安全度を正確に把握する力がつき、終盤力が向上する。つまり人間的なミスが減るのではないかと期待しています。」”

ここまで徹底的にソフトを利用する棋士が、はたして、どれだけいるでしょう。千田棋士はソフト利点を知りつくし、それに特化した稀有なタイプです。

もし、彼が名人なり竜王といったタイトルを獲れば、この考え方がスタンダードになるかもしれません。将棋ソフトは、こういった面でも非常にインパクトがあります。

■信じる者は救われる

また千田棋士はインタビューのなかで
”「ソフトを盲信してはいけないと言いますけど、それもどうでしょうか。全部正しいと思った方が強くなるんじゃないかと思うこともあります」”

と語っています。

この発言には正直驚かされました。彼のなかでは、もはや棋士とソフトどっちが強いのかなどという問題は、超越しています。千田棋士のスタンスを見ていると、将棋ソフトと棋士のあいだにあるいざこざが、分からなくなってきます。どこまでが将棋ソフトでどこまでが棋士なのか、そのことが不明瞭です。

強ければいい。強くなるためにどうすればいいか。それを追いもとめるという点で、千田棋士は、渡辺竜王とまったくおなじです。しかしながら、七〇〇万人におよぶ将棋人口から、プロの壁を突き抜けた棋士が、ここまでソフトに寄り添えるのか。それが、はなはだ疑問です。

ソフトと棋士は実力伯仲となってきましたが、棋士同士の戦いは別物であり、棋士同士の対局にはおよばないという考えは、ある意味、理解できます。

しかし、棋士はソフトに負けているのだから、棋士は、将棋ソフトをつかって棋力を向上させるべきだし、そのためには将棋ソフトの「評価値」が役に立つ。そうかんがえている棋士がいるとは思いもしませんでした。将棋ソフトは是か非か? その論争や、将棋ソフトの評価が定まらないのも頷けます。

■デジタルデバイト

将棋ソフトがここまで問題となるのは、やはり、人間同士の戦いといいつつ、棋士が直接あるいは間接的にソフトの影響を受けるからだとおもいます。

では、ソフトの影響がどのように表れるか? ひとつは情報のスピード化にあります。定跡のサイクルは、インターネット中継が本格的に始まった六、七年くらいまえに、一度起こっているのですが、将棋ソフトが活用される現在はさらに短くなっています。

定跡サイクルが短くなった現在、いかに流行に対応していくのか、棋士にとって、戦型サイクルのスピード化は重要な問題です。流行のスピードに乗れない棋士はとり残されるわけで、棋界にはデジタルデバイトが、より顕著になっています。

■ソフトの柔軟性

いまひとつは、将棋ソフトの影響として、戦術の柔軟性があげられます。0/1思考で指すコンピューター将棋は、無味乾燥で、固定的なイメージがつきまといますが、実際のソフトはそうではないらしいのです。

驚くべきことに、将棋ソフトの出現によって、序盤から中盤にのおける戦術の幅は広がったといいます。その理由は、棋士が対局で、事前にソフトで裏が取れている手をさすので、冒険的な手が増えたからです。

棋士たちの冒険により、将棋はあきらかにその戦術幅を広げています。将棋ソフトの出現によって、棋士たちは定跡に捉われなくなりました。人間の思考だけで研究していたときのほうが硬直的というのは、いかにも皮肉な気がします。

将棋ソフトに対し好ききらいはありますし、ソフトに負けると人間が負けたように感じるのも、無理なからぬことです。しかし、未知なるものを使って、はじめてわかることもあります。棋士が将棋ソフトとどのように折り合いをつけるのか、今後もその動向に注目したいとおもいます。

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