小説以外のもの 書評

文は一行目から書かなくていい│藤原智美

「文は一行目から書かなくていい」
藤原智美
プレジデント社

まえがきに、次の一文があります。
”人は文章とは、書き手の内面やふだんは隠している思いが、あらわれてしまうものだと、うすうす気づいていて、だからこそ「書けない」のではないか、と私は思っています。
文章を書くという行為は、恥ずかしさや戸惑いをともなうもので、それが筆を進める妨げになっている。文章と書くとき、つい気取ってしまうのも、自分の内面を隠そうとしてしまうからかもしれない”

これを読んだとき、なかなか鋭い洞察だとおもいました。書くことが恥ずかしさにつながるだなんて、考えもしなかったのですが、いわれれてみればその通りです。

■創作とは

作者の藤原智美さんは、子どもの頃、夏休みの絵日記で、母と電電公社にいった話を書いたそうです。電電公社ということで、巨大ビルにダイヤル式の黒電話の看板を描いたものの、後にそんな看板が存在しないことを知り、子ども心に愕然としたそうです。

作者は、先生を喜ばせるため架空のストーリーを作ったといい、そのうえで”文章の本質は「ウソ」です。”と述べています。「ウソ」と表現するのは書こうとするとき、そこに演出があり、文章の形になった瞬間とき、なんらかの創作を含んでいるからです。

”ありのままに描写した文章など存在しないのに、それを追い求めるのは無茶な話です。文章の本質は創作であり、その本質から目を背けて耳に心地よいアドバイスに飛びついても、文章はうまくならない”

と言い切るあたり、なかなかおもしろい考えです。これだけ歯切れがいいと、読んでて清々しい気持ちになります。

■ことばの特性

作者は、ウソ、演出、創作といった言葉をもちいて、文章の性質を巧みにあらわしています。これは興味深い考えで、文章をウソ───すなわち虚構ととらえるのは、小説家特有の感性といえます。

しかし”文章の本質は「ウソ」です。”という言い方は、ものすごく近いのですが、決定的にちがう部分があります。それはなぜかというと、ことばの本質が再現性にあるからです。

ことばというのは、自分の脳にある事象をすこしちがったかたちに変えて伝達し、それを相手の脳内に再現するためのツールです。

■ことばとイメージ

林檎といわれれば、たいていの人は赤くて丸い果物を思い描くでしょう。しかし、そうしてイメージした林檎のなかにも、林檎の細部まで克明にイメージする人やイラストみたいな簡単な画の人、もしくは林檎のにおいや味まで思いだす人など、想起の仕方はさまざまです。林檎ということばはひとつですが、受け手のイメージはじつに多様なのです。

なぜ多様かというと、再現の仕方が人によってちがうからです。だから人間が会話をするとき、話が通じているようで、伝わっていないという現象がよくおきます。これは、再現性の齟齬に原因があります。

というか、極端な話、脳内で別のイメージを思い浮かべながら、話のつじつまだけはあっているという現象は、言葉の世界ではよくおこりえます。そのため、そっくり同じイメージが共有できないという意味で、ことばはウソだといえます。しかしそのウソが、齟齬はあっても、意味が通じている限りまちがいではないと捉えるなら、言葉は本当のことをいっています。

これを書いてて嘘っぽいなとおもうのですが、まったく嘘はありません。なにしろ、ことば───の説明ですから。

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