小説 書評

ハーモニー│伊藤計劃

「ハーモニー」
伊藤計劃
ハヤカワ文庫

霧惠トァンは、WHO世界保険機構の螺旋監察官に就いています。この世界は、健康監視システムを体内に組みこむ生命主義を採用し、螺旋監察官は、生命主義を押しすすめる尖兵を担っています。危険な遺伝子操作が行われているかどうかを監査するのが本来の仕事でありながら、監察官の報告書によっては紛争になることもあり、彼らは強い権限を持っています。

トァンは、停戦監視団の一員として紛争地域に派遣されつつ、その裏で、生命主義にまつろわぬ民と取引を行っていました。抗病パッチを引きわたし、葉巻、酒といった嗜好品を手に入れたり等々。

極度に健康を重んじるこの世界において嗜好品はもちろんタブー。にも関わらず、トァンは進んでそれを手にします。辺境の地にまできて嗜好品を摂取するのは、彼女の過去のせいでした。

■若きカリスマ

彼女にはかつて、ミァハという心から慕う親友がいました。ミァハは、クラス一番の成績優秀者でありながら変わり者で、みんなから腫物に触れるように扱われていました。彼女は、テキストデータを製本業者に書籍化してもらっては本を読みあさり、トァンが本は重くてかさばるよといえば「重くてかさばるのは、いまや反社会的行為なんだ」と笑ってこたえるのでした。

聡明な反逆者。若きカリスマのミァハに、トァンは心を奪われます。

この世界は生命主義がひろく浸透し、人々はWatchMeを体内に取りこみ、絶え間なく全身を監視されています。大災禍の後、身体は貴重な資源と考えられ、一種の社会公共物として扱われるようになりました。しかし、ミァハは、この思想を否定します。命と健康を至上とする世界を閉鎖社会と考え、思いやりにみちた空気を嫌悪したのです。

社会への反抗として、トァンとミァハは公共物としての身体/パブリック・ボディを拒み、白い錠剤を呑みこみ自殺をはかります。しかし、それは失敗におわります。トァンは親友のミァハを失い、おめおめと生きのこってしまうのです。トァンが嗜好品を口にするのは、生命主義へのささやかな反抗───かつての親友を思い出しての行為だったのです。

■親友との別れ

裏取引がばれたトァンは、首席監察官から、本国へ帰還するよう命じられます。トァンは嫌々、帰国し、ともにミァハに憧れたもうひとりの友人・零下堂キアンと再会します。高層ビルのレストランで食事をしながらかつての思い出を振り返っていたところ、事件がおこります。突然、キアンがテーブルナイフを握りしめ、そのまま喉許に突き刺し、みずからの命を絶ったのです。

■世界多発同時刻テロ

翌日、世界中同日同時刻に、六千人近くが自殺を図り、そのうち約三千人が死亡したことが発表されます。そして世界同時多発自殺テロの原因は、あろうことか、WatchMe にあったのです。

自殺テロの謎を追い、トァンはかつて父の助手・冴紀ケイタをたずねます。トァンの父は、WatchMeに連なる一連の技術をはじめてきちんと理論化し、WatchMeの普及に貢献した科学者でした。やがてトァンは父親と再会し、彼と情報交換するなかで、自殺テロの影に意外な人物が潜んでいることに気づきます。その人物とは───。

■重厚な世界設計

生命主義を中心に、政治と思想、社会への影響が語られます。重厚で緻密な世界で、主人公は社会に反発し、その様子が公vs個の対立として描かれ、社会を描き、その対立項として個人の描くのとで反発なり摩擦がうまれ、物語がおもしろくなっています。

この作品の根底には技術思想があり、技術思想によって、物語の枠組みが構築されています。興味をひくのは、そこに、未来への警告ないし現代の矛盾が含まれていることです。

この物語では、SF的な想像力によってハイパーな技術を駆使し、重厚な世界観から超能力まがいのアクションやハッピーな世界が描かれるかといえばそんなことはまるでなく、むしろ逆で、ここで描かれるハーモニー社会はとても息苦しさを感じます。

大災禍によって人類は変貌し、政府を単位とする資本主義的消費社会から、健康を第一とする生府を単位とした医療福祉社会へ移行していて、人々は互いの慈しみと支え合いを基調として生きています。技術が進歩し、世界は格段に良くなっているのに、まるで幸福感がないあたりが、現実の延長とよく似ています。

人々は操り人形のごとく考えることを放棄し、仮初めの幸福のなかでぬるま湯に浸かって生きています。これは、じつに気持ち悪い社会です。

■生命主義とは

ホッブズは十七世紀、イギリスで活躍した哲学者で、生命の安全によって個人を規定した最初の人物です。以後、近代政治は、ホッブズに倣い生命の安全をもとに礎を築き、ジョン・ロックやルソーへと引き継がれていきます。そこには政治体制を宗教や貴族ではなく、あくまで個人をもとにして考えるという思想です。

「ハーモニー」は個人の生命を飛躍的に尊重した世界となっていて、ともすれば、生命主義なるものは、ホッブズの思想を限りなくつきつめた状態といえます。

しかし自分の情報を差し出して健康を得る行為は個人意識/プライベートの切り売りに他ならず、「命を大切に、という言葉には、たくさんの意味がまとわりついています」というように、この世界は欺瞞と善意で埋まっています。その欺瞞をハーモニーとよぶのですから、これはもう生き地獄というしかありません。

■善意にみちた世界

「ハーモニー」を読むと、殺意を押しつけるのも善意を押しつけるのも同じだなと思います。殺意であれ善意であれ、他者への支配が介在している点は似ています。善意で優しく包みこむ。そんな社会はいっけん健康に見えるのですが、とても不健康な状態です。過剰な健康思想へのアンチテーゼとしてこの物語がつくられたと見るのは、いささか深読みでしょうか。

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