「さとり世代」の消費とホンネ
牛窪恵
PHP研究所
新人のトレーニングをしていると、必ずといっていいほどイラつくことがあって、そんなとき決まって「これだからゆとり世代は……」と愚痴りたくなります。たしかに彼らは概ね従順で云ったことは聞くし、物覚えも早くて素直です。
いい子はいい子。優秀といえば優秀です。
ですが、ときに物足りなさを感じることがあって、ややもするとその従順が、たんに聞き流しているようにしか見えず、指示には従うものの、指示がないと動けないという悪癖をもっています。判断をともなう局面で、とたんに脆さを見せるのです。危なっかしくて仕方ありません。
もうひとついえるのは、彼らには自分から仕事をしようする積極性がありません。前に出る意欲に欠けるのです。
彼らに対して直接理由を聞いたこともあるのですが、状況なり個人によって色々な考え方があってそれはそれでなるほどと思うのですが、あえてそれを十把一絡げに推察すると、どうやら彼らは、教わってないからニアリーイコールマニュアルがないからという時点で、自分の責任ではないと考えている節があります。というか、多分そうです。なぜそんなふうに思うのかまるで理解できません。
世代間格差というべきか、ニュータイプというべきか、新人類はさすがに古いか——とにかく彼らは根本的に、仕事をはき違えています。自分で考え実行し、間違えたら自分で責任を負う。それが仕事というものです。
ゆとり世代の行動原理
そんなことをぶつぶつ考えながら新人を見守っていると、あきらかにこれはなんだ? と感じる場面があります。得てして彼らは浮き沈みが激しく、沈んだときに露骨に顔にだします。凹むとなかなか元に戻らず、「自分はメンタルが弱い」と平気な顔していいます。ネガティブ耐性がまるでありません。
こういう場面にでくわすと、思わず舌打ちしそうになります。言葉にださないものの、内心、何なんだ、それは! メンタル弱いと云えば赦されると思っているのかと、どつきたくなるのもしばしば。
「さとり世代」の消費とホンネなる本に出会ったのは、そんなことを考えていたときでした。出会った瞬間なんて表紙しか見てないのに、なんの根拠もなく、この本にはなにかある! と勝手に思いこみました。そして読みはじめてすぐ、自分の勘が正しかったと確信します。
読みすすめるにつれ、身におぼえのある場面が、随所に出てくるのです。あるある、それ! と何度、心のなかで叫んだことか。作者=牛窪さんのツッコミはひじょうに的確で、説得力があります。これを読んだからといってさとり世代の扱いがうまくなるだなんて毛頭思いませんが、本を握りしめて、それそれ! と思うだけで、ストレス解消くらいにはなるでしょう。
なんちゃって制服
さとり世代の若者は横並び意識が強く、みんなといっしょだと安心する生き物なのだと、作者=牛窪さんは云います。その横並びを象徴するのが「なんちゃって制服」です。
”「この前、『なんちゃって制服』でディズニーに行ったんです」”
女子大生にそう聞かされたとき、牛窪さんは、「なんちゃって制服ってナンだ!?」と首をかしげたそうです。激しく同感です。なんちゃって女子高生ならまだしも、なんちゃって制服といわれてもピンときません。いやピンと来なくもありません。ひょっとして、歌舞伎町にあるいかがわしい風俗か? でも、なんちゃってというくらいだから、新大久保のほうかも、と良からぬ想像を働かせます。
「なんちゃって制服」は、チェック柄の制服風スカートで踊るAKBの姿を想像すれば、おおよそ察しがつくと思います。彼女たちが着ていた服が、そのままなんちゃって制服です。ちなみになんちゃって制服の草分けとして原宿の制服専門店「CONOMI」が紹介されています。なんでもここは、巷でいちばん有名な制服セレクトショップなんだとか。
で——。若者のあいだでは、なんちゃって制服を着て、友人とペアのファッションもしくはお揃いにするのが定番になっています。彼らは友達とおなじ服を着ると安心するらしく、それがステータスにつながるのです。
この一文を目にしたとき、そんな馬鹿な! とおもいました。それは牛窪さんも同じだったようで、「大学生にもなって、なぜ友達とお揃いでそんな格好を?」とツッコんでいます。我々の感覚からして、なんちゃって制服などあり得ません。友だちと服が被っただけでテンションだだ下がりです。服がかぶれば目立たないし、それだけならまだしも、あの子、ひょっとして私の真似してる? と思われたら日には、憂欝で街を歩けなくなります。最悪です。
「個性」を尊重して育ったはずのゆとり世代が、無個性な同質性にむかうのか? 彼らはしきりに同質性を求めます。なぜそこまでして友だちと同じでいたいのか、不思議でなりません。
牛窪さんは彼らの同質性を、
”さとり世代では横並びこそがハッピーなのです。”
と指摘しています。
バブル世代は、中学生のときツッパリが幅を利かせていました。ツッパリの根底にあったのは、学校や先生という大人が支配する権力の構図にあらがい、校則や制服など、枠にはまったものから飛び出す<反体制/レジスタンス>。盗んだバイクで走り出す尾崎豊に共鳴した我々ですから、大人への反抗は当然だ——くらいに考えています。
ところが、さとり世代は口を揃えて「悪目立ちしたくない」といいます。
何だ、そのすかした台詞は。悪目立ち? そもそも君たちに目立とうとする勇気があるのかねと、問い質したくなります。どうも悪目立ちしたくないというところに、違和感を覚えます。規制の枠に留まろうとするそのおとなしさこそが、彼らの病巣だというのに。
親ラブ族
こちらもちょっと信じらない話です。実はゆとり世代のあいだでは、親ラブ族なる商品が流行っています。親ラブ族? ん、なんだそれは?
”結婚情報誌「ゼクシィ」の伊藤綾編集長がいうには、「最近は、結婚式で『家族全員でケーキ入刀』がブーム」なんだとか。その親ラブ族傾向は年を追うごとにエスカレートし、式場では「カットしたケーキを、新郎がママと、新婦がパパと食べさせ合う」や、「サプライズでウェディングドレスを着せてあげる」といったオプショナルプランまで登場しているのだそうです。”
このくだりを読んだとき、全身が震えました。
あり得ない。そんなこと絶対にありえない。牛窪さんも驚きのあまり、思わず「えっ!?」と声をあげてしまったそうです。ええ、わかりますとも、わかります。それはそうでしょう。我々の感覚からして、こんなことは絶対ありえないのです。
家族全員でケーキ入刀などしようものなら、マザコンをアピールする痛いやつとして友人間で語りつがれるのは間違いありません。誰が好きこのんでそんな汚点を残すというのでしょう。さとり世代はいったい何を考えているのか?
しかし彼らには彼らなりの理由があります。親ラブ族は、家族を大切にすることの表れだといいます。今までお世話になってきた感謝の気持ちをこめて、皆でお祝いするのがうれしかったり、家族といっしょだと安心してよかったりするんだそうです。
ふむ。なるほど。云ってることはまともですが、なんだかまともすぎてそのまま受け入れられません。なぜそこまでして家族大好きになれるのか、理解に苦しみます。親に干渉されることを嫌い、反発を旨とし、親不孝上等を地でやってきた我々世代にとって、親ラブ族など敗北同然です。大体、結婚式なるものは、別々の家族になるための門出の儀式ではありませんか。その別れに際し、元の家族の共同作業としていっしょにやるなどもっての外です。
コスパ消費
”ヘアスタイリング剤「ウーノ フォグバー」は、競合商品より高めに価格設定しているにも関わらずよく売れたそうで、そこにはコスパへの巧妙な訴求があり、資生堂は、若者のコスパ感覚に注目し、テレビCMで、俳優の妻夫木聡さんや小栗旬さんらに「ワックスと違ってベタつかないから、シャンプーの回数が減って、結果的に(コスパ)でお得」と云わせました。これがコスパに敏感なさとり男子に刺さりました。”
節約意識が高いながら、買い物も嫌いではない。消費嫌いではなく「コスパ」を重視して買い物をするというのが、ゆとり世代の主張です。
これもまた、馬鹿な! なのです。さとり世代は買い物が何かわかっているのでしょうか? 好きなものを自分で好きなように買うから、買い物なのです。そこに「コスパ」制約をかけてしまっては、買い物の醍醐味が失われるではありませんか。なぜそんなことがわからないのでしょう。そもそもコスパコスパ云うくらいなら、最初から買わなきゃいいのです。結局、彼らは安い買い物ですませ、オマケみたいな特典を「コスパ」として喜んでいるにすぎません。買いたいものもかえず、コスパで納得するのは自己欺瞞です!
脆弱な生き物
ゆとり世代は親に支えられて過保護に育った世代であり、自分で何もしなくてよいと思っている世代であり、世慣れないまま世間に放逐されたか弱き世代です。つねに友達の顔色をうかがうのは、横並び意識の表れといいつつ、自分が損してないか見張っていたいからでしょう。彼らは自分が置いてかれることに、とても敏感です。コスパ消費も然り、大きな買い物をさけるのはリスク回避の行動で、そうまでしてぬるま湯につかるのは、自分で決断できないから、それが理由なのです。
過保護にそだった小動物を見るたびに、こいつら大丈夫か? と思えてきます。ダメだ。どうみても軟弱すぎる。若者の意欲の減退は、消費を直撃し、日本経済の消費活動を大きく減退させるでしょう。
マーケティングとゆとり世代
マクロからみた消費は個人の意思決定の集積であり、そこには特定の層が存在し、層ごとに行動原理や消費に関する本音が潜んでいます。「さとり世代」の消費とホンネを読んでいると、牛窪さんの「なんでこんなものが流行ってるの、なんで、なんで?」がたくさん出てきます。牛窪さんの興味が、若者の本音、そして本質にぐいぐいせまってきます。
マーケティングから出発していますが、牛窪さんがやっているのは人間観察と同義で、とどのつまり、若者と対話したなかで出てきた仮説です。いわば推論にすぎません。推論なので、それが本当に正しいかどうかなんて誰にもわかりません。しかしその推論が、読んでいて実にたのしく感じます。興味のある人はベクトルの強さがちがいます。読んでいるだけで、引き込まれそうになります。
ヒット商品なるものは消費者の観察の成果であり、そしてこうではないか? という仮説から始まっています。仮説にはじまり、仮説におわる。結局、その繰り返しです。そして仮説なるものは、事象はひとつだが、解釈の仕方は人それぞれ異なります。百人いたら百人なりのゆとり世代の解釈があっていいと思います。
きっと我々は、初めて現れた世代に、アレルギーを発症しているだけなのです。ゆとり世代という今まで見たことない異物も、時が経つにつれ、徐々に馴染んでいくのだと思います。いえ、きっとそうなります。できれば、その理解が穏やかに進めばいいなとおもうのですが。