小説 書評

一九八四年│ジョージ・オーウェル

『一九八四年』
ジョージ・オーウェル
高橋和久訳
早川書房

人々は、偉大なる指導者ビックブラザーによって導かれた理想の社会で暮らしています。しかし、そこは理想とはほど遠い場所でした。

人々の生活は、受信と発信を同時におこなうテレスクリーンにより、絶え間なく監視され、些細な音や、一挙手一投足まで捕捉されています。革命を試みる反乱分子は、思考警察によってきびしく取り締まられ、自由を叫ぶことはおろか、党の批判も許されません。求められるのは、忠誠と従順な姿勢のみ。そこにあるのは、息もできないほどの 閉塞感 でした。

誰もが始終監視はできないだろうと思いつつ、その一方で、思考警察は好きなときにテレスクリーンに接続できるため、人々は、監視の目を意識して暮らしています。なにか行動するときは、ひょっとしたら、だれかに監視されているのではないかと、疑念がよぎります。個人の空間もなければ、監視の目からも逃れられない。人々は相互不信に陥っています。まさに最悪な社会です。

■虚偽と真理

主人公のウィンストンは、真理省の記録局で働いています。本来、記録局は、市民に新聞、映画、教科書、テレスクリーン番組、劇、小説などを提供する部署ですが、その実態は、党の要求にこたえ過去に記録された文書を改竄しています。 記録の偽造。 それが真理省における重大な業務なのです。

なぜそんな不毛なことをしているかというと、党の体面を取りつくろうためです。党に関する文書を選び、編集し直し、必要な照合をおこなって真実として記録する。この行為によって、党の正当性が担保されます。そして党に貢献するのであれば、偽造も改竄も、ここでは是なのです。

ウィンストンは口述筆機なる機械をつかって、<党中枢>の見解と齟齬を来さぬよう、毎日文書を書き換えています。それが虚偽であり、虚偽が真理となることを知りながら、彼は仕事に打ちこみます。

しかし、ウィンストンは、盲目な羊ではありませんでした。彼は党中枢にちかい真理省ではたらきながら、日記に"ビック・ブラザーをやっつけろ"と綴り、日々の鬱憤を吐き出します。そして自分が危険思想の持ち主であることを自覚しつつ、いつか<思考警察>にみつかって逮捕されるのを夢見ながら、現実と折り合いをつけようとします。

党への従順な姿勢、そして、それに相反する憎悪。官吏の仮面の下に相容れないふたつの意思をもち、ウィンストンは、分裂しそうな自分を抱えているのでした。

■最愛の人

あるときウィンストンは、虚構局ではたらく若い女───ジュリアが近づいてくるのを見て、彼女が<思考警察>の手先ではないかと疑います。党を信奉し、党のスローガンを鵜呑みにし、スパイの真似事をするのはいつも若い女なのです。そうした先入観が、ウィンストンのなかにあったのです。

ジュリアを警戒し隙を見せないようにしていたウィストンでしたが、しばらくしてそれが誤解だと気づきます。ジュリアは純粋にウィンストンに好意を持ち、それゆえに近づいてきたのでした。

ジュリアは二十六歳と若く、虚構局で小説執筆機をメンテナンスに従事しています。<スパイ団>の班長をつとめ、<反セックス青年同盟>の活動に参加し、周囲からは党の方針にしたがった立派な人間と思われています。

しかし党に忠実な態度をとっている彼女は、その実、党の教義にまるで関心がなかったのです。ジュリアは党のあり方に疑問を感じつつ、自身の生活に直接触れないかぎり、党の教義には関与しないというポリシーを持っていました。小さなルールを守っていれば、大きなルールを破ることができる。

それが、極度の監視社会のなかで彼女が獲得した生きるための知恵だったのです。

ウィンストンとジュリアは、往来であっても顔をあわせず、歩きながら会話し、党員が近づいてくるのを見ては唐突に会話を切り上げ、翌日、またその話を続けるといった方法で連絡をとります。そうやって監視の目を盗んで逢瀬を交わし、親密な関係を築きます。密会を果たしたふたりは、セックスによって互いをもとめ、生の実感をむさぼり、体を重ねて愛情をふかめます。やがてジュリアは、生きるうえで欠かせないパートナーになっていきます。

■共産主義の悪夢

「一九八四年」は、単なるSF小説ではありません。現実を抽象化し、どこか未来を予言している趣があります。すこし先の未来を読むことで、ジョージ・オーウェルの知性を感じられます。優れた先見性や知性を味わえるという意味で、これ以上贅沢な一冊はありません。

「一九八四年」の世界に浸っていると、自然と、スターリン政権下のソ連や冷戦時代のソ連が頭にうかびます。共産主義という高邁な理想にむかって突きすすんだスターリンは、その理想に反し"大粛清"をおこない、反乱分子をことごとく屠りました。 虐殺 された人数は50万人とも700万人ともいわれ、当時のソ連が、極度の監視社会にあったことは想像に難くありません。

社会主義国家は、資本主義からの脱却をめざして作られたあたらしい社会制度でした。しかし、その目論みはあっけなく崩れます。大粛清然り、社会主義はより劣悪な社会を生みだし、官僚主義、金権主義が蔓延ると、富の分配は滞り、労働者は圧政を強いられます。

それだけならまだしも、指導者は労働者の反乱をおそれ、強制収容所をつくり、史上稀に見る虐殺をおこなったのですから、まさに異常な社会です。社会主義が、二〇世紀最大の実験にして、最悪の悲劇とよばれるゆえんがここにあります。

■権力ゲーム

資本主義が利潤をむさぼる「金儲けゲーム」だとするなら、社会主義で発生したのは「権力ゲーム」です。金儲けゲーム──資本主義は、権力を分散していて、金儲けを目的にしいて一連の営みがおこなわれます。一方、権力ゲーム──社会主義は、専制的であり国家の要職に就くのを目的に、そこに参加する人々が一連の行為を営みます。

(「ニーチェ入門」竹田青嗣 ちくま新書)

そして分散されない極端な「権力ゲーム」は、必然的に歪を生みだします。過去に例をみない大量虐殺は、過去に類を見ない「権力ゲーム」によって生みだされたのです。

当時のソ連の状況を想像するなら、思考警察さながらの洗脳監視の目があり、人々は、教義と現実の矛盾を目の当りにしていました。それでも党批判は許されない。人々はみずからの生活を守るために、必死に口をつぐんだのです。理想を掲げたがゆえに、それに縛られる世界。自由にモノ云えぬ世界。その状況は、「一九八四年」で語られる「二重思考」と重なります。

洗脳めいた生活は全身に怖気が走るほどの環境で、教義と現実のあからさまな矛盾を強いられれば、人々は、「二重思考」によって理性をたもつしかないでしょう。

■自由と逸脱

現実の抽象化した小説ゆえに、「一九八四年」は、政治、イデオロギー、監視社会、統制経済と多くのテーマをふくんでいます。

読んでいると途中で経済白書のような箇所に出くわすのですが、そこからジョージ・オーウェルが多眼的な視点が読みとれます。いくつもの思考を組み合わせ、多眼的に検討した結果、「一九八四年」が書かれたのかとおもうと、感慨深いものがあります。

「一九八四年」で特に興味をおぼえたのは、ウィンストンの逸脱でした。ウィストンとジュリアは、監視の目を掻いくぐって道ならぬ恋を求めるかたわら、現実を変えるべく革命に手を染めます。ふたりは現状の社会を否定し、新たな楽園をめざします。極度の監視社会にいるなら逸脱は当然の帰結でしょう。というか、きっとどんな理想社会であっても、逸脱は自然的におこるのですが。

現状からの脱却をもとめるのはそれは人間の<性質/さが>といえますし、<性質/さが>というのがいいすぎなら、生きていくうえでの恒常性運動ともいえます。良くもわるくも、人間はそこにある社会に適応し、適応すると見せかけて反発するのです。

YESとNO。
適応と反発。
順応と逸脱。

人間の生活は、そういったものを絶え間なくくり返しているように思います。抑圧された理想と奪われた自由。そのせめぎ合いのなかで、ウィンストンも自由を求め逸脱していきます。そして、思わぬ落とし穴にハマることになります。

ふと、「一九八四年」はSFなのだろうか? そのことが頭をよぎりました。SF。フィクション。架空の世界。いいえ、ちがいます。これは立派な現実です。ここで描かれた世界は、まぎれもなく現実とリンクし、角度とかえて我々に影響をおよぼしています。

これはSFではなく、現実の一部。「一九八四年」は、年月をおうごとに現実となり、社会を侵しつつあります。そう考えて、すこし寒気がしました。

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