『希望荘』
宮部みゆき
小学館
なんでもない日常に、意外な事件が潜んでいて、その事件の奥にとんでもない恐怖が隠れていたりします。それは死の間際、介護施設にはいった父親がワイドショーを観ながら、「自分はむかし、若い娘を殺したことのある」と告白したことや、手打ち蕎麦店の主人が、突如、女をつくって行方を晦ましてしまったというものです。
いかにもありがちな事件なのに、読みおえたときにはゾクリとします。凍った刃を背中にあてたような、冷たい感触です。ホラーはホラーで怖いのですが、今までフツーだと思っていたものがフツーじゃなくなる瞬間は、それ以上に怖いとおもいます。
■震災後を描く
「二重身/ドッペルゲンガー」も、ありふれた日常からはじまっています。この作品が他とちがうのは東日本大震災をテーマにしているところです。読むと、宮部みゆきから見た、震災前、震災後の意識に触れられます。そこが貴重───というか、時代の節目のようにかんじます。
主人公の杉村は、今多コンツェルン会長の娘・菜穂子と結婚し、グループ広報誌の編集者として働いていました。しかし、とある騒動をきっかけに菜穂子と離婚、家を出ることになります。離婚したあと、杉村は探偵事務所をはじめていて、その意味でこの本は、杉村の復帰第一作にあたります。
探偵といえば聞こえはいいのですが、杉村は良識ある一般人で、これといった特徴はありません。特殊能力があるわけでもなく、するどい観察力があるわけでもなく、また探偵にありがちな周囲をイラつかせる奇矯な行動もとりません。地道な調査を信条とするフツーの探偵です。でも、気がつくと、事件に巻きこまれています。
そんな杉村のもとに、ひとりの依頼人がやってきます。高校生の伊知明日菜ははすっぱな口調で、お母さんが付き合ってた人を探してほしいと打ち明けます。未成年ということもあり、杉村は当初乗り気でなかったのですが、母親の恋人が東北旅行中に被災し、現在も安否がわからないまま行方不明になっていると知り、調査にのりだします。
行方不明になったのは、カジュアルアンティークを営む昭見豊でした。昭見は目的もなくあちこち旅行に出かける放浪癖があり、東北にフラッと出かけたまま震災に遭い、そのまま行方がわからなくなった───と思われます。
杉村は、昭見の経営するカジュアルアンティークを訪れてみたものの、店内は段ボールの積みあがった状態で、バイト君がひとり、店じまいの作業をしているだけでした。有力な情報が得られず調査にいきづまりかけたとき、杉村はアンティークショップにやってきた昭見の兄に偶然出くわします。昭見の兄は、弟がいなくなったときの状況を語り、そのあと「弟は ドッペルゲンガー を見かけ、後を追いかけていったのかもしれない」と意味深な内容をつぶやきます。
さらに調査をすすめていくなかで、杉村は、ひとつひとつの情報をパズルのように組みあわせていきます。そして、あるひとつの可能性に気づくのですが───。
■フツーの探偵
杉村はフツーの探偵です。この物語は複雑なトリックもなく、意外な犯人がいるわけでもなく、一発逆転をねらった大掛かりな作品というわけでもありません。なのに、ひじょうに読みごたえがあります。
毎回、事件解明のくだりでは手が震えるし、読み終えたあとは、なにがしかの感情が胸に刺さります。それがことのほか重いとおもいます。探偵もフツーなら、依頼人もフツーで、背景となる街の様子もフツーであるにもかかわらずです。
これはどこにでもあるような事件だし、お昼のニュースで流れてきても違和感はありません。おそらく、ああまたかとか、こういうのありそうだよなと思うはずです。それくらいありふれています。
ありふれているのに、真相が解けたときには背中に悪寒が走ります。なぜこんなにゾッとするのか? それはフツーの人間がかかえる闇が深いからです。
■なぜ"フツー"を描く?
フツーの人間でもどこかしら変わったところはあるし、ひとつくらい闇を抱えていてもおかしくありません。しかし、ひとつくらいと思ったその闇が、案外、曲者だったりします。よくよく見ると、深くて果てがなく、あなぐらのように延々と続いていたりします。暗く、冷たく、危うい人の闇。そこに引きずりこまれます。
心に宿った闇が異常なものであればあるほど、そこに魅了される。それが人間の性かもしれません。
狂人が抱える闇ならまだわかります。狂人なら、あえて近づこうとも思わないですし、ある程度距離をとることで関係性を保つことができます。闇が肥大し、欲望を抑えられなくなり、犯行におよぶというなら理解できます。正確にはそれは理解するのではなく、想像の上でわかった気になるだけです。自分と区別するだけの自己満足。とはいえ、一定の距離はとれます。
では、フツーの人がフツーの仮面をつけたまま、闇を抱えているとしたらどうでしょう。そんな状況は理解したくありません。理解したとたん、闇がそこかしこにできてしまうからです。だったら、狂人のほうがまだマシです。狂人であれば、最初から信じなければいいのですから。
フツーと信じていたものが信じられなくなる。これ以上の恐怖があるでしょうか。
宮部みゆきは、あくまでフツーに軸をおいています。フツーの視点から事件を描き、と同時に、人間の闇を物語のあちこちに編んでいきます。その編み方は、人の闇が美しいメロディを奏でるのを知っているかのようです。だから───でしょうか? 正常と異常のあいだを行き来する宮部みゆきの物語は、たまらなくおもしろいのです。