小説 書評

涙香迷宮│竹本健治

『涙香迷宮』
竹本健治
講談社

囲碁のプロ棋士・牧場智久が、涙香の隠れ家をおとずれ、「いろは」の暗号を解き明かす異色ミステリィです。
テーマのひとつとなっているのは黒岩涙香で、涙香にまつわるうんちくがふんだんに出てきます。うんちく好きにはたまらない内容です。

■涙香の素顔

黒岩涙香は明治に活躍した作家で、探偵作家の祖として知られています。ですが、意外なことに涙香のオリジナル作品は少なくて、そのほとんどが、海外の作品を模して書かれた翻案小説となっています。かの大乱歩は、「白髪鬼」「幽霊塔」といったおなじタイトルの作品を書くほど涙香から影響を受けていて、いってみればこれらの作品は翻案小説を翻案した再翻案小説という、なにが大元なのかよくわからない状態になっています。乱歩以前の探偵小説の系譜が黒岩涙香にあり、かつ、ここまで直接影響を受けているとは意外でした。

またいわずもがな涙香は、萬朝報なる新聞社を経営する実業家でもあります。萬朝報は、今でいうスキャンダルを売りにしたゴシップ新聞で、あまりに過激な記事を飛ばしたせいで政府筋ににらまれ、発行停止処分をくらっています。発行停止になるくらいですから、当世の人々にはよほどウケたのでしょう。

さらに涙香は、遊戯の達人としても知られています。著名人をまねいてビリヤードの競技会を開いたり、それを記事にしてビリヤードを喧伝するのは朝飯前、自分が使用するキューに「9618」という数字を彫るほどの凝りようですから、いかに入れこんでいたかがわかります。

と、このように知られざる涙香の顔が次々と出てきて、それだけを読んでいても、楽しいはたのしいのです。

■希代の暗号ミステリィ

が───話はそれだけにとどまりません。この作品の本筋は、涙香フリークが集まっておきた殺人事件と暗号の謎解きにあります。そしてもっとも興味をそそられるのが、涙香の残した"いろは"です。いろはの暗号は難解そのもの。とかく、いろはへのこだわりが尋常ではありません。

いろはというのは、あいうえおなど日本語のすべての文字を一回ずつ使用して、全体として意味をもたせた詩のことで、7+5のセットを四回繰りかえす形式となっています。涙香の別荘では秘蔵の「いろは」がとめどなく登場するのですが、その数が尋常ではなく、また名作揃いで驚きます。

「いろは」を壁にあしらった別荘は、もはや言葉の迷宮で、暗号に彩られ空間は呪術でも執りおこなうかのような異様な雰囲気になっています。いろはをずっと読んでいると、頭のなかをぐるぐるといろはが巡り、抜け出せなくなります。しかもそれが暗号になっているというのですから、この難解さは半端ではありません。

この迷宮───まさに涙香迷宮なのですが───こそが、この本の最大の見せ場なのです。

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