小説 書評

最後の敵│山田正紀

「最後の敵」
山田正紀
河出文庫

森久保与夫は、遺伝子工学の大学院に通う学生でした。あるとき与夫は、山東隕石から検出されたアミノ酸がすべてD型だったと知り、地球規模の危機が進行していることに気づきます。それは大進化の予兆であり、地球上のすべての生物が一掃する災厄でした。

与夫は、フリージャーナリスト・うるわしから「あなたの戦うべき相手というのは進化なのよ」といわれ、戦いを強いられます。進化——。それはあまりに巨大な敵でした。

与夫は、うるわしによって導かれ、進化から遺伝子的侵略をはばむ組織・カーロンの一員となり、いくつかの戦いを切り抜けていき、やがてレベルBの現象閾世界に封じこめられていた意識が覚醒し、自分が"進化"と闘うための"情報"——人類の切り札であることを思い出します。そしてうるわしの言葉に戸惑いながら、パートナーの鳥谷部麻子を助けるため、 宇宙船<大腸菌号> に乗りこみ、敵組織に立ち向かっていきます。

分子生物学とエヴァ

進化をテーマにしたSF小説です。「最後の敵」では、冒頭から遺伝子工学の専門用語や実験室の風景がちりばめられ、非日常的空間を形づくっています。とくに前半部分における、メンデルの法則、DNAの二重らせん構造、DNA情報をRNAに写しとる転写、アミノ酸のD 型、L型といった用語は、雰囲気をもりあげるのに役立っています。

生物分子学をモチーフにしたSFで思いつくのは、新世紀エヴァンゲリオンです。いうまでもなく日本アニメの金字塔というべき作品で、エヴァのなかでも生物分子学の専門用語が頻繁に飛び交っています。

たとえば、A10神経は、エヴァとパイロットを神経接続する際に重要な役割をはたす機能ですが、本来は、人間の欲求が満たされたときに活性化する部分、快楽を司る神経をいいます。またジオフロント中心部に位置するセントラルドグマも分子生物学からの引用で、これは本来、遺伝情報が「DNA→(転写)→mRNA→(翻訳)→タンパク質」の順に伝達される仕組みをいいます。

さらにバーで、ミサト、リツコ、加持が三人そろって飲んでいたとき、生きるってことは変わるってことさというのを受け、リツコが「ホメオスタシスとトランジスタシスね」とほのめかし、「今を維持しようとする力と変えようとする力、その矛盾するふたつの性質を一緒に共有しているのが生き物なのよ」というあの場面も、本来はホメオシタシス——生物が様々な環境変化に対応し、形態的状態・生理的状態を安定させ、生存を維持する性質をさしています。

「最後の敵」は八〇年代が初出なので、エヴァの二十年もまえに書かれています。生物分子学をつめこんだSFがそんな昔に書かれたことも驚きなら、その遺伝子工学の知識がいまと比べてほとんど遜色ないことにもあらためて驚きます。いやあ、まったくすごい。

スケールの大きさ

「最後の敵」は、まぎれもなく山田正紀の力作です。山田作品では人間と神の対決はおなじみの構図ですが、それが今回は、新人類と進化の戦いになっています。進化にいどむ主人公。まさに圧巻のスケールです。圧巻すぎて、ちょっと想像が追いつかないくらいです。

特にすごいのは、与夫が銀のテレパシーにみちびかれて対決にむかう場面で、時間と空間が入れ子になるのを認識し、四次元生命体としての域に達するところです。あまりある描写は作者の想像が完全にドライブし、読者を置き去りにしています。

作者なるものは、いってみれば自分の作品の最初の読者でもあるわけで、ともすれば、山田正紀はどこか自分で楽しむために作品を書いているように思えてなりません。いや、ひょっとしたらそれ自体が目的なのかも。

読むとそれくらい想像力が掻き立てられる作品です。大げさにいうなら、想像力が文章で表現できるぎりぎりの閾値にあります。こんなぎりぎりの作品をつくる人は滅多にいません。そしてこの域値をめざす無謀な試みこそ、山田正紀の神への挑戦といえるのです。

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