小説以外のもの 書評

1995年 (前篇)│速水健朗

「1995年」
速水健朗
ちくま新書

二〇一五年はどんな時代なのかと考えたとき、そのはじまりは一九九五年にあるのではないか───と思いました。なにか根拠があったわけではありません。たまたまそんなふうに感じただけです。

一九九五年を振りかえると、当時は青春を謳歌していて、このさき訪れる二〇年後のことなどまったく考えていませんでした。二〇一五年といわれてもピンとせず、頭にえがくのはちょっとしたSFの世界が関の山でした。

あのときみた一九九五年と今からみた一九九五年は、どうちがうのか? 「1995年」なる本を手にとったのは、そのことが頭をよぎったからです。未来の二〇一五年と過去の一九九五年。同じ地点にありながら、このふたつにどれだけ隔たりがあるのか、そのことを知りたいとおもいました。

政治

一九九五年は選挙制度が変わった年でした。うろおぼえの記憶によると、中選挙制から小選挙制に変えたのは、不世出の官房長官と謳われた後藤田正晴その人です。中選挙区制を止め、小選挙区を導入したのは金権政治からの脱却を図るためで、金のかからない選挙をおこなうのに小選挙区制が適していたのはいう間でもありません。田中角栄の政治を目のあたりにしてきた後藤田からすると、小選挙区に舵をきるのは、政治改革の道として当然の帰結だったのです。

が、この小選挙区が引き金となり、のちの小泉圧勝劇を生むことになります。そして自民党にしろ民主党にしろ、このあとの選挙は一党圧勝の傾向がつづいていきます。その発端が小選挙区にあるのですから、後藤田も皮肉な選挙改革をおこなったものです。

タレント知事

時をおなじくしてもてはやされたのがタレント知事でした。東京都知事は青島幸男で、大阪府知事は横山ノック。この顔ぶれからして時代を象徴している感があります。タレント政治家の特徴は、無党派層のとりこみにあります。

母体となる政治団体をもたないにも関わらず、彼らは無党派層の支持を得、知名度を武器に、テレビを利用してメッセージを発しました。まさに政治におけるテレビの申し子。タレント政治家は、確信犯的に無党派層を利用した最初の政治家だった───というのは言い過ぎでしょうか。

政治におけるタレント政治家の権勢はいまなおつづいていて、石原慎太郎や橋本徹の活躍は記憶に新しいところです。スキャンダルによって阻まれはしたものの、参院選挙で乙武氏の名前があがったのも狙いはおなじところにあります。

余談ですが、テレビを利用し、視聴者をあおって支持を得る政治家がいるなら、ネット民から支持を得る政治家が現れてもいいような気がします。またそういった政治家が華々しく登場するときに、時代が動くのだと思います。

当時、タレント知事が目をひいたのは、選挙時に無所属を喧伝したことで、これはアンチ政党、アンチ官僚をアピールする狙いがありました。彼らは行政と政治への批判を得意とし、的確な批判によって、選挙戦を優位にはこびました。そういう意味では、タレント政治家は、従来の実行する政治家と異なります。彼らの本分は実行ではなく批判にあるのです。

そして政治批判という選挙手法は、小泉純一郎の登場によって、いっそう明確となります。「自民党をぶっ壊す」というフレーズは、閉塞感にうちひしがれた国民の心をみごとに捉え、変人・小泉純一郎は派閥ではなく一般党員の支持を得て、総裁選を勝ち抜いていきます。

抵抗勢力をつくりだし過激に批判する手法は、劇場型政治ともいわれ一世を風靡しました。またワンフレーズを打ち出してたたかう選挙は、のちの大阪府知事選で、橋本徹が忠実に模倣していきます。

批判する政治家という流れは、一九九五年においてすでに顕在化していました。このあと国民は、動かなくなった政治に対し、急速に不満を溜めこんでいきます。その一方で、政治になんとかしてほしいという願いもあるにはありました。派閥に期待はもてないし、政治に不満はある。だけど、政治への期待はまだ捨てたくない。そういった矛盾の受け皿が、タレント知事だったように思います。

災害

一九九五年一月一七日、午前五時四六分。淡路島を震源にマグニチュード七・一三の地震が発生します。日本をおそった未曾有の大災害───阪神大震災です。横倒れになった高速道路、それと火の手があがる神戸の街並みは、日本崩壊を予感させるほどの< 衝撃 インパクト >でした。

実はこのとき五五年体制が崩壊し、政治は過渡期にさしかかっていました。犬猿の仲だった社会党と自民党が連立政権をくんでいたのですから、永田町ほとんど異常事態だったといえるでしょう。時の首相は、社会党党首・村山富市で、阪神大震災への対応は政権運営に不慣れな社会党があたることになります。

時代の変わり目、しかも政治の不安定なときに天災が降りかかるのは、不運としかいいようがありません。ちなみに天災と政権の不運なめぐりあわせは、東日本大震災でも繰り返されることとなります。政権担当に不慣れな民主党が、原発問題に飲みこまれていったのは、おおげさにいうと時代の宿命かもしれません。

阪神大震災のあと、神戸復興が盛り上がります。復興のシンボルとなったのが、神戸に本拠地をおくオリックスブルーウェーブスでした。前年の一九九四年、オリックスブルーウェーブスに所属していたイチローが、二一〇本安打を放ったこともあり、震災直後はひときわ注目をあつめます。

その影響か「がんばろうKOBE」のスローガンのもと、オリックスはパリーグを制覇、日本シリーズへ進みます。そういう意味で一九九五年は、イチロー伝説のはじまりでもあります。

経済

バブル崩壊後、勢いをうしないつつあった日本経済で、この年住専問題がもちあがります。そして不良債権が、じわじわと金融の首を締めはじめます。住専はもともと個人向け住宅ローンを貸付けるノンバンクでしたが、バブル期に企業向けの不動産事業に手を広げ、その資金が焦げついた結果、六兆円もの不良債権を抱えます。

この問題に対処すべくのちの整理回収機構がたちあがり、中坊公平を中心に債権回収チームが結成されます。ニュースステーションの報道もあり、元経営者の自宅にまでおしかけ直談判する中坊の姿は、平成の鬼平として脚光を浴びました。

さらに日本の金融不安はこの住専問題から本格的化し、九八年には北海道拓殖銀行、日本長期信用銀行が経営破綻するなど、都市銀行の大型倒産がつづきます。以来、不良債権は、日本経済に長く停滞をもたらします。

実際、不良債権を解消するには、二〇〇二年の小泉内閣、経済政策・金融担当大臣、竹中平蔵の登場を待たなくてはなりません。竹中プランにより不良債権が売却され、銀行の貸借対照表からオフバランスされるまで、この問題は実務的に放置されつづけます。

一九九五年当時、これから金融不安がやってくるとは想像だにしていませんでした。萎んだとはいえバブルの面影がまだのこっていて、景気の先行きを楽観視する人が多かったのです。久しぶりに体験する急激な景気後退に、人々は、すっかり自信を削がれます。企業が容赦なくリストラを敢行し、能力主義と効率性を優先するようになると、バブルの面影は完全についえます。それがだいたい一九九七年以降ですから、一九九五年は 最後の宴の時期だったといえるでしょう。

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