小説 書評

七夕の雨闇│高田崇史

『七夕の雨闇』
高田崇史
新潮社

七夕うんちくに満ちたミステリィです。梅雨の香りにつつまれた稽古場で、竹河流能宗家・竹河幸庵は、「…り…に、毒を」ということばを残して絶命します。

その数時間前、幸庵は自身の親戚で、機姫神社の宮司をつとめる星祭家を訪れていました。というのも彼は、明後日、みずからの七十の賀を祝い、機姫神社の能楽堂で「井筒」を舞う予定になっていたからです。井筒というのは、田楽・猿楽を能に昇華させた世阿弥が、六十歳をすぎて書いた作品で、世阿弥円熟期の作として知られています。そして「井筒」は、幸庵のもっとも得意とする演目でもありました。

捜査、混迷す

稽古場で倒れた幸庵が、舞台に爪を立て苦悶の表情を浮かべていたことから、警察は毒殺の線で捜査をすすめます。しかし、死亡直前に幸庵はなにも口にしておらず、筋注、静注の跡もみられないことから、毒物の特定にはいたりません。死因は即効性の高い毒物にも関わらず、接種方法が不明で、毒物の特定をめぐり、捜査は混迷を深めます。

そんななか、医療業界向け雑誌ではたらく西田は、新人指導を任され、その新人から京都でおこった毒殺事件を知らされます。そして新人の依頼により、毒草師の肩書をもつマンション隣人に相談を持ちかけ、事件に関わっていきます。

はたして能楽宗家・幸庵が、稽古のまえに星祭家に出向いた理由はなんなのか? 幸庵がのこした「り」なる言葉は、星祭をしめすダイイングメッセージなのか? はたまた<井筒>と機姫神社には、どのような歴史が隠されているのか?
毒殺事件は、毒草師により紐解かれていくのです。

歴史の闇

高田ミステリィは、いつもありきたりな殺人事件にはじまり、壮大な歴史ロマンをさまよって歴史の闇をときあかし、最終的に事件の動機を読み解く構造をしています。今回もその構造は寸分違わずおなじです。ふんだんに盛り込まれた蘊蓄を読み続けるうちに固定観念がなくなり、歴史の暗部があきらかとなります。そして歴史の誤解がとけたとき、思考のパースペクティブが完全に入れ替わります。

犯行動機を、一見事件と関係なさそうな歴史の暗部にのせて語りきってしまう手法は、強引ながら癖になります。というか、読めばよむほどハマります。

七夕のもとは製鉄?

今回のテーマは七夕です。
七夕といえば、天の川をはさんで離れ離れになった彦星と織姫が、一年に一度、再会する大イベント。一年に一度しか会えない設定からしてすでに悲恋にしか思えず、彦星と織り姫の名前を聞いただけで、甘酸っぱいかおりが漂います。ほかに七夕で知っていることといえば、七夕流しや天の川で、天の川を川でイメージするなら、ハレとケの穢れに相当すると思います。ひょっとしたら、梅雨という季節の変わり目に「穢れ」を流すためにもうけられたのが七夕かもしれない。七夕で思いつくのはそれくらいでした。

ですが、これを読むと、そんな浅い知識は吹き飛びます。
彦星はわし座のアルタイルをいい、「牽牛」とよばれます。牽牛は牛飼いで、あからさまに「うし」が当てられています。また牽牛星は金星であり金神を指すことから、牛頭天王につながります。そしてここでも彦星には、牛=「うし」の意があてられます。

では、彦星=「うし」を指すことに、どんな意味があるのでしょう?  こたえは素戔嗚です。牛頭天王は古くから素戔嗚の化身として崇められていることから、彦星は牽牛星から牛頭天王を経て素戔嗚へとつながります。というか、彦星には、最初から素戔嗚を含意している節があります。

素戔嗚はそのまま「朱砂の王」であり、朱砂=砂鉄=製鉄の原料となることから、製鉄の原料を支配する王であり、そのまま製鉄集団を指します。ちなみに古代製鉄集団が、アイコンとして牛をつかうのには意味があり、牛はうし=大人で、製鉄において使役される人を指すからです。こういった事情を鑑みても、彦星に「うし」がまとわりつくのがよくわかります。そして、それは朝廷に刃向った 素戔嗚が怨霊となった証 でもあります。

竹にまつわる謎

彦星ひとつとっても驚愕ですが、うんちくは、これだけにとどまりません。じつは七夕で使われる竹にも深い意味があります。

竹は筒であり、筒は星の意味をもちます。刑事ドラマでよく出てくる「ホシをあげる」のホシも実は筒=星のホシからきていて、犯人=ホシ=星=ホシ≒わるい星となり、筒=星には元来"わるい輩"という意味を含んでいます。つまり、ホシは、朝廷からみて悪さを働く「まつろわぬ民」を指しています。さらに、竹の葉である笹はササから「ササ・カネ」に転じ、そのまま砂々につながります。

七夕における彦星を当てた場合、七夕―彦星―スサノオ―製鉄集団―砂々―ササ―笹―竹となり、見事に一本の線でつながります。ここまで状況証拠が揃えば、もはや偶然では済みません。七夕が何らかの意図をもって設計されているのは明らかです。

彦星だけでこれだけの意味があるのですから、もちろん織姫にも同様の謎があるはずですが……。そちらは読んでのお楽しみです。

もはや呪い

七夕の雨闇を読んだとき、
───甘かった。
と思いました。

七夕には、彦星を織姫が出会わぬように巧妙なからくりが仕組まれています。それは怨霊信仰のたまものです。七夕が悲恋の物語だなんて、誰がいったのでしょう。そんなはずがありません。恋とかふたりの逢瀬とか、そんな甘っちょろい要素はなにひとつありません。彦星と織姫は、一年に一度どころか、永遠に出会ってはいけないふたりなのです。
いかに七夕が騙られているか? それを考えただけで、もうゾッとします。

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