小説以外のもの 書評

近代政治哲学(後篇)│國分功一郎

カント

■カントの自然状態

カントは、ホッブス・ルソーとはまた別の切り口を提示しています。民衆の状態ひとつとってもそれは明らかで、カントは民衆の状態を「人類の進歩」と見ています。

人間は自由気ままに生きたいと願っているのですが、自然権の行使は制限されています。本来、権利の制限に対し民衆は不満を持つのですが、民衆にとって国家の形成はメリットがあるため、いったん国家という体制を受け入れます。

と、ここまでは、ホッブズ、ルソーとおなじ展開です。が、カントがおもしろいのはここからです。カントは、人間は社会を作り上げる存在であるにもかかわらず、自然は人間の成熟の時期を、社会的洗練の進歩と一致させることをしないと主張します。
人間の成熟?
社会的洗練の進歩?
いままで聞いたことのない概念に、これはなんなんだと耳を疑いたくなります。

いってみればカントは、自然状態という平面に時間軸を持ちこんで思考しています。人間が本来生まれ持った自然と、人間が作り上げてきた社会は、その歩調を異にするため必然的にズレが生じます。その自然と社会のズレを解消ための行動を、カントは「進歩」と規定しているのです。そして、いわずもがなズレを解消するには相当の期間を要することから、人間は子孫をのこし、社会を進歩させるべく取り組んでいると、そう考えるわけです。

カントは百年先を見据えていて、社会のもつ暫時性を認めたうえで、意識的に百年スパンで思考している節があります。ルソーとホッブスが、過去・現状にもとづいて自然状態を語っていたのに対し、カントの思考は未来をむいています。過去と現在を整理し、そこから未来をみちびきだす。このやり方はカント独特なものがあります。

■カントのコモン-ウェルス

コモン―ウェルスつまり社会契約についても、カントは、

"社会契約が実際に締結されたわけではないにしても、あたかもそれが実際に締結されたかのように国家が運営されればこの理念は十分に役割を果たす。"

と述べています。
社会契約の根拠をあえて問わず、機能性に着目したところに、カントの割り切りが見えます。そのうえで、社会契約という理念が実在性をもつと規定している点は画期的です。ある意味でカントは、社会契約の存在を所与として扱っていて、そして、そのことがカントの問題意識が別のところにあることを示しています。

■カントの主眼

カントが注目するのは国家の運営であり、民衆のサービスの享受です。その視点は民主主義の矛盾をするどく衝いています。どういうことかというと、行政権の下す個別的にすぎない判断が、国家と民主主義の名を掲げた瞬間、まるで全員の判断であるかのように扱われるからです。「全員でない全員」によって決定されるにもかかわらず、民主主義を掲げた瞬間、一般意志による決定がつくられてしまいます。

社会契約という全員の意思のもとに政治がつくられ、民衆の意思を反映して政治体=国家は運営されているはずです。が、こと行政においては、その理論が通じません。個々の事象において、全員の意思が尊重されることはほぼないからです。個々の事象は、個々の判断が尊重されて然るべきです。

この事実を一般意思と地つなぎで考えるなら、個別的な問題は、社会契約にもとづいて判断されないことを意味します。ホッブスが国家をつくるために民衆の権利をひとつに集めようとし、ルソーは強大化する民衆の力を政治体に結びつけようとしました。それは自己保存という観点から、民衆にメリットがあったからです。

にも関わらず、カントは国家から受けるサービス=行政の段に至り、社会契約にもとづく判断はないと断じています。コモン―ウェルスであれ社会契約であれ、それは上位概念でありひとつの理性です。崇高な理性を押しすすめることで近代がつくられてきたのも事実ですが、こと行政においては、理性の拡張は限界を露呈します。

現代の官僚問題へとつづくこの事象を、十八世紀を生きたカントがすでに予見していたのは驚愕です。おもわず身の毛が弥立ちます。おそらく彼は近代の行く末、そして終着点をすでに見据えていたのだと思います。恐るべしカント。

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