小説 書評

QED ホームズの真実│高田崇史

『QED ホームズの真実』
高田崇史
講談社ノベルス

桑原祟と棚旗奈々ふたたび───。
テーマはシャーロックホームズと紫式部です。QEDシリーズ史上これほど異色の組合せはなく、これほど期待がふくらむ題材はありません。読むまえから名作の香りがただよいます。

これはシャーロック・ホームズの空白の三年間を取り上げ、ホームズがどこに姿をくらましていたのかを、緻密な論証で解きあかしていく小説です───って、ちがっ! 全然ちがいます。

「QED ホームズの真実」は、もっともあり得ない展開をくりだすかつてない問題作です。これはある意味でシャーロック・ホームズを冒涜しています。紛い物であり、インチキ。そしてかつてない大法螺です。

にも関らず、そんな問題作をしれっと出してくる高田崇史は傲岸不遜です。シャーロック・ホームズといういわば世界で一番有名なフィクションを日本の歴史に組みこむや、どうだすごいだろといわんばかりに見せつけています。その堂々たる展開は、肝がすわってるの一言。大泉洋だったら「何考えてんだ、あんた!」というはずです。

フィクションの罠

いまにして思えば、伏線は最初から張られていました。主人公である桑原祟が犯人の動機について、

"「動機というのは、たとえば俺たちが自分の真情や思いを言葉にした瞬間、全てがフィクションと化してしまうように、犯人が口にした瞬間から非現実化されてしまう。言葉や文字になったノンフィクションというものは存在しないんです」"

と語っています。フィクションであろうが、ノンフィクションであろうが文字になれば皆おなじ。それは文字で語られる内容は「物語」に還元されてしまうからです。この台詞にふれたとき、桑原はソシュールの言語理論について語っているか、もしくは、人間の認識の奥深さに言及しているものだと思っていました。が、それはとんでもない勘違いでした。

高田崇史は、フィクション-ノンフィクションという伏線をつかって言い訳していたのです。
正面切って、堂々と。
なんら悪びれることなく。

さすがにこの展開をよんだときは、本を投げつけそうになりました。QEDで憤慨したのははじめてです。とはいえ好意的に考えるなら、それだけ今回の仕替けが大胆だったといえます。大胆と取るか、やりすぎと取るか。そのあたりは、意見の分かれるところですが。

紫はエロス

興味深かったのは、紫式部についてのうんちくです。特に「紫」に関する考察はピカイチです。古典文学でいうところの「紫」は怨念をあらわす色であり、しかも「女性」を意味すると、かの桑原祟は語ります。しかもその女性の意味というのも、単なる性別だけでなく精神的、肉体的、そして性的情念すべてを含む概念だというのですから意味深です。

端的にいえば、紫はエロスを指します。現代でいうとピンクに近いとおもいます。ともすれば、紫式部は、エロスの女王みたい意味でしょうか。

例えば、

"在原業平は、その和歌において、
紫の色濃き時はめもはるに
野なる草木ぞわかれざりける"

と詠んでいて、歌の意味は、
"──紫草が色濃い時は、見渡す限り遥々と芽を張っているすべての草木が区別することなく愛おしく思われる。妻への愛情が深い時は、その縁につながるすべての人が分け隔てなく親しく感じられることだ。"

となります。冒頭に出てくる「紫の色濃き」は愛情のたとえで、桑原のいう「紫=性的情念」という説を見事に裏付けています。また源氏物語にでてくる和歌で、紫に関するものをみると、

"手に摘みていつしかも見む紫の
  根にかよひける野辺の若草
──この手に摘み取って、早く我がものとしたいものだ、あの紫草(藤壺)にゆかりのある野辺の若草を"

となり若い紫は、そのまま若いオンナつまり少女を指しています。いやあ、エッチすぎる。少女趣味なんて変態です。むしろ変態を隠そうともしない堂々たる態度は谷崎潤一郎をおもわせます。あそこまで自分の性癖をさらけだせるなら、もはや清々しい!

紫はかくも人を惑わすのか───紫の根深さに感心しきりです。と、ここで疑問があります。紫が、女性の象徴であり怨念だというなら、宮中で高貴な人が身にまとう紫の衣にも、やはり同じ意味がこめられているのでしょうか? たんに紫=高貴な色という意味だけでなく、オモテに出せない存在=奥に秘められた色=怨念の意味があるのかもしれません。

ひょっとしたら、紫を纏うやんごとなき方たちこそ怨念なのかも。だとしたら、エライことです。紫は怨霊であり、怨念の系譜は天皇にある。高田崇史なら、そんな仮説を平然と唱えそうです。あな、おそろしや。

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