小説 書評

冷血│高村薫

『冷血』
高村薫
毎日新聞社

高村薫の警察小説です。人知れず公園でバイオリンを弾いていた合田が、農業に走っていたのには笑いました。すり切れ感が半端ないなと。

と同時に、
──合田のやつ、流行を意識していたのか。
と妙なツッコミが湧いてきます。大所帯の捜査員を指揮するかたわら、キャベツをつくる合田雄一郎なんて、ミスマッチの最たるものでしょう。

合田の哀愁は、なにかを育てるために土いじりをするのではなく、擦り切れた自分をたしかめるために、農業をはじめたところにあります。日々の捜査に向かううちに、次第に耐え切れなくなり、ぎりぎりの息苦しさに追いこまれていく。自分を保つことはかくも難しいものなのかと、合田とみているとそう思います。

歯科医一家、惨殺

さて今回は、歯科医一家殺人事件です。犯人となる井上、戸田が知りあったきっかけから、死刑執行までが描かれています。

犯人は求人サイトを通じてたまたま知り合い、なかば思いつきでATMを襲撃、あてもないままコンビニ強盗に流れ、最終的に歯科医一家の惨殺に至ります。いきあたりばったりの犯行の末、歯科医の妻からキャッシュカードを奪い、夫婦を根切りで頭を殴打して殺害。しかも二階で寝ていた子供まで殺してしまいます。

なんて無慈悲な凶行でしょう。心無い凶悪犯罪が、犯人の視点からはしゃいだ感じで描かれていて、高村薫にはめずらしい描き方だなと思います。

犯人の逮捕

捜査がはじまったところで、真打、合田の登場と相成ります。逃げる犯人、追う捜査陣の構図です。追走劇がはじまりかと思いきや、意外にもあっさりと犯人は捕まり、
──まだこんなに頁がのこってるんですけど。
とやや拍子抜けします。コンビニをまわり、キャッシュカードから金を引き出していた犯人たちもつかまり、一件落着かとおもいきや、じつはここからが「冷血」の本領発揮となっていきます。

理由なき犯罪

理由なき犯罪

犯人がつかまり取り調べがはじまったあたりから、捜査陣は難題にぶつかります。それは犯人の動機でした。なぜなら一家四人を皆殺しにする凶悪事件でありながら、犯人たちは、明確な動機──殺意をもっていなかったのです。動機と呼べる大層な代物はなく明確な殺意もなかった。犯人にあるのは、たんなる思いつきであり、いきあたりばったりの状況、そしてムカついたから殺したという 反射的な感情 だけだったのです。

その行動は短慮にして、粗暴。警察が求めているような動機など、犯人には最初から存在しないのでした。犯人たちが出くわした状況と反射的な行動、それだけで殺意は立証できるのか?

「冷血」ではこの犯人の動機───それはもう動機ですらなく、動機がなくてもたやすく人を殺せてしまう犯人の内面───に、けっこうな文量をさいています。動機を掘り下げるという完オチ的な方向にむかうこともなく、動機がなくとも犯罪は成り立ちうるというスタンスをとりつづけます。その頑なな姿勢は、警察小説にもかかわらず 動機を見出さないというアンチテーゼ にも見えます。ひょっとしたら人間を描き、人間の内面に肉薄することで、高村薫は動機の不在を描こうとしたのかもしれません。

凶悪犯は凶悪か?

後半になるにつれ、物語は合田と死刑囚の交流に傾斜していき、捜査が終わったあとも犯人の井上と手紙のやりとりを続けます。事件の主犯的役割をになった井上は、合田を利根川図志の刑事と呼び、風土に関する本が好きだと手紙を書きます。そして、合田は合田で、それに見合う本を数冊みつくろってかつての犯人に送ります。

自分が挙げた犯人から手紙をおくるとき、合田の胸にはどんな思いが去来したのか? 仕事は仕事と割り切って犯人を挙げておきながら、井上に魅かれはじめる自分がいて、深入りせぬようどこか抑制を働かせつつ、手紙のやりとりをつづける。そうすることで合田は、やがて訪れる井上の死の何分の一かを、引き受けようとしたのかもしれません。

終盤にさしかかったころ、死刑囚となった井上に明らかな心境の変化がみられます。その変化に、合田が影響していたのは想像に難くありません。犯人と交流つづける合田は、血も涙も、そして殺意もみせなかった「冷血」における一縷の望みとして描かれています。

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