『さようなら、ゴジラたち』
加藤典洋
岩波書店
ゴジラの特殊撮影監督といえば円谷英二で、特撮の父とよばれる円谷は「太平洋の鷲」「さらばラバウル」につづいて「ゴジラ」の制作を手掛けています。このことは「ゴジラ」が、戦争映画の延長線上にあることを示しています。すくなくともゴジラは、戦争を撮った人たちから生まれたのです。
戦争映画の系譜を考えたとき、なぜゴジラが日本の都市を壊滅させねばならなかったのか、という問いかけは非常に興味深いものがあります。
ゴジラとは?
ゴジラ襲来とそれにともなう日本の壊滅は、東京大空襲をなぞっていて、スクリーンに映しだされる家屋が倒壊するシーン、荒野と化した東京などは、いってみれば空襲後の光景そのままです。ゴジラ襲来が東京大空襲を想起させるなら、なんども繰り返される都市壊滅は、みずから惨事をたしかめる行為──いってみれば自虐の反復です。が、そこには自虐以上の真意──なにがしかの割り切れない想い──が、あるように思います。
そして、その真意にせまるにはゴジラは何者なのか? という問いが必要で、翻っていうならそれは、ゴジラという怪獣に、日本人はなにを見たのか? ということになるでしょう。
ゴジラと戦争
特に目をひいたのは、ゴジラが戦争の事実を振りかえりもせず、復興に邁進する日本人を祟っているという考え方です。有体にいうなら『さようなら、ゴジラたち』のなかで、ゴジラは敗戦後にあらわれた戦没者の怨霊として語られています。
ゴジラ怨霊説。
この指摘は、ゴジラがヒットした本質の、かなり近いところをついています。制作側からみても、戦没者の姿を着せている節がいくつかあり、それはゴジラが日本の街を攻撃するとき口から放射能をはきだしていて、放射能による攻撃は、そのまま原子爆弾をイメージさせます。またゴジラが水爆実験から生まれたという設定も、同じように原子爆弾をなぞり、ここでも日本人の禁忌ともいえる核の恐怖が強調されています。さらに毎回ゴジラが、海の底からやってくるのも見逃せないポイントで、海の底といえば、沖縄にむかう途中で撃沈された 戦艦大和 を連想させ、ゴジラが大和の戦没者の霊を引き連れてくるかのようなイメージを想いおこさせます。
ゴジラには、ゴジラ―戦争―戦没者の霊がひとつの線でつながっていて、原爆、大和といった戦争のアイコンを多く含んでいるのです。
ゴジラは日本人の祖先である
ゴジラ怨霊説の一番のポイントは、ゴジラが何度も日本を襲来するところにあります。なぜゴジラは、何度も日本にやってくるのか? 幾度となく襲来し、日本を破壊し、壊滅へと追いやり、そしてまた海へともどっていく。その意図はどこにあるのでしょう。
この何度もやってくる怪獣=非人間なるものは、お盆とおなじ意味をもっています。すなわち祖先信仰に通じるのです。つまりここでもゴジラは、破壊することで恨みを晴らし、黄泉の国へかえっていく戦没者の姿が仮託されています。
では、ゴジラが怨霊となる要因はどこにあったのでしょう? 怨霊がうまれた背景には、戦後を生きる人々が、けっして切り離すことがなかった戦没者との関係だったり、一方で忘れなくては進めなかった目の前の現実だったり、後ろめたさと矛盾と後悔が、横たわっているように思います。
行き場をうしなった感情が総体となってふくらみ、結果、ゴジラに集約される。ゴジラという激しい後悔が実態を得て、日本にやってきて都市を破壊します。ゴジラは、我々の生活を脅かす敵です。にも関わらず、映画をみた人たちが、都市壊滅やゴジラの襲来をあるがままに受け入れるのは、戦没者の霊が鎮まるならそれでいいではないかとの思いがあるからです。いわば、ゴジラは戦後の後悔の総決算なのです。
後ろめたさの記憶
ゴジラには、日本中にわだかまっていた不のニーズを的確にとらえ、特撮映画として巧みに表現させた一面があります。そして、それが大ヒットにつながったのだと思います。不安がおそれを、おそれの共通化が、共同体の認識へと祀りあげられる。そして巨大なモンスターとなったのです。敗戦後わだかまっていた戦没者へのおそれ、申し訳なさが、ゴジラ流行の根底にあります。
おそれと悲しみ。
後悔と愛情。
経済が発展するにつれ、戦後の悔恨の情は深まっていったのでしょう。ともすれば、ゴジラ映画が廃れたのは、戦争の記憶が薄れてきたから──なのかもしれません。