『光秀の定理』
垣根涼介
角川書店
明智光秀を題材にした歴史小説です。
世間の外に身を置く無頼の僧・愚息と、坂東から流れてきた兵法者・新九郎のやりとりから物語ははじまります。師弟関係ともいえるふたりのあいだに光秀が加わり、三人は次第に友情が芽生えていきます。歴史小説でもあり、友情物語でもあり、合間に数学が挟まったちょっと変わった話でもあります。
明智光秀は、土岐源氏の明智一族の生まれでした。私設外交官として京に駐在していた頃の明智十兵衛は、美濃でおこった道三崩れにより、国許からの支援、すなわち経済的・武力的基盤を完全に失っていました。愚息たちと出会ったとき、十兵衛は、将軍の近臣である和泉細川家に身をよせていて、いわば肩身のせまい居候だったにすぎません。
そんな愚息たちとの出会いから、新九郎が吉岡一門と決闘したり、松永弾正の軍勢が周囲を警備している興福寺一乗院から義昭を救い出すなど、光秀のもとに難題がふりかかっては、三人で知恵を絞って切り抜けていきます。
おおよその筋は、光秀が困り果て、それを愚息が助け出すというパターンになっています。これは常に不安をかかえている光秀と、世間に阿ることなく泰然としている愚息の対比でもあり、光秀の役割は、主人公というよりトラブルメーカーに近い気がします。「困った、困った」といって頭を抱えている光秀の姿が目に浮かぶようです。
光秀、確率に立ち向かう
さて愚息たちと知り合って幾年が過ぎたころ、織田家の配下となった光秀は、六角氏の城を攻めることになりました。この戦はただ城を落とせばいいというものではなく、短期決戦が必須命題となっていました。
なぜなら織田勢は、六角氏の背後にいる三好三人衆と松永弾正に、プレッシャーをかける必要があったからです。織田勢の圧倒的な軍事力と統率力が伝播すれば、蜘蛛の子を散らすように、かの一党は京洛外からでていく。そういった状況をつくりだせるかどうか。ともすれば、いかに損耗を避けたうえで短期間で戦を終えるか、それが勝敗の分かれ目になっていたのです。
戦がはじまり、光秀は手勢三百を率い、長光寺にむかいます。山頂を奪い、他の城の指揮を低下させ一気に攻略するためにも、時の経過が勝負となります。光秀は、急く気持ちを抑えることができません。
城に至るまでの山道は北側と南側の四つあります。敵兵力を四方に配置する七十から八十となり、手勢の三百とすれば、攻城に必要な兵力を上回る計算になります。充分な兵力を持ち合わせている光秀は、万全の体制を敷いて、城攻めにかかります。
かしここで光秀の計算が狂います。明智勢の兵力を正確に把握した敵方は、四つの山道のうち、ひとつを捨てて、残り三つに百名ずつ投入したのでした。四つのうち三つの可能性で、勝利を収められればいいという戦略を立ててきたのです。
どちらの山中に百名の伏兵が潜み、どの山中が無人なのか。光秀は決断を迫られます。そして窮地においやられたとき、ふと、あることを思い出すのです。
それは、辻にでて賭けに興じる愚息の姿でした。賭けはごく普通のもので、四つの椀のなかから、石の入ったそれを当てるというもの。まず足軽たちは四つの椀から一つを選びます。すると愚息は、空の二つを開けます。残りの二つのうちどちらかに石が入っていることになるのですが、ここで愚息は、足軽たちにもう一度椀を選ぶようすすめます。
最終的な二つの椀のうち、一つを選ぶのは足軽たち。理としては、勝ち負けは半々、つまり。確率は二分の一になるはず――。なのに、勝負は、不思議と愚息が勝つのです。
四つ道のうち、敵兵のいない道はひとつだけ。愚息の賭けと酷似した状況においやられ、光秀は正解の道を選ぶことができるでしょうか。
戦略に秀でた僧侶
これは光秀の青春物語というより、愚息の視点から、光秀を眺めているようなお話しです。愚息と新九郎のやりとりが大部分を占め、視点も、自ずと、そちらにひっぱられます。そもそも、これは光秀の定理ではなく、愚息の定理ではないかと、無用なツッコミが湧いてきます。
この物語の魅力は、愚息のだす問答が、数学的な示唆に富んでいるところです。数学×歴史。一風変わった組み合わせに見えますが、必ずしもそうとはいえません。とくに仏教の世界では数学が盛んで、仏僧というのは、抹香臭い存在ではなく、知の巨人として敬われてきた側面があります。
建築・治水というった事業には数学的な計算が欠かせず、今でいう理系の人として頼りにされてきたのです。昔話における化物退治に、僧が活躍するのも、僧が知恵者として扱われてきたことの証左といえます。
建築・治水に活躍する僧がいるのなら、軍事に秀でた僧がいるのも必定でしょう。そしてそういった数学に秀でた僧が、数学の定理をもとに傭兵をおこなうのも、さもありなんといった感じです。
そう考えるなら数学×歴史の組み合せも、なんら不思議ではなくなります。軍事に必要なのは戦況に応じた決断で、その決断は本質的にギャンブルとおなじです。不確実ななかでいかに決断するか。決断の奥に潜む理として、確率論を用いる僧があらわれるのは、ある意味当然といえるのです。