小説 書評

東京プリズン│赤坂真理  (後編)

で――。マリの天皇降伏の研究は、混迷を深めていました。玉音放送で有名なあの一節を英訳しようとしたところで、マリの手はハタととまります。
堪ヘ難キを堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ
そう、まさにあの一節です。しかしこれは誰のこと指しているのでしょうか? 堪え難きを堪えるのは誰だろう。主語はIなのかWeなのか、それともPeapleなのか。天皇の名のもとに行われた戦争がおわった。なのに、大人たちはなにかを隠して生きている。戦争がおわったことを敗戦とは呼ばずに、終戦と呼ぶのもその一端でどこかで誰かが一番肝心な部分を隠している。日本にはそんな空気が蔓延し、ひた隠しにする空気はいまもなお続いているのです。 

マリがいちばん知りたいことは、大人たちが口を噤んでしまったそのことなのに、それをどう調べていいかがわかりません。なぜなら、みんな口を閉ざしているから。触れたがらない空気の奥にあるその正体とは――。
天皇ってなんだろう?
しこりを抱いたまま、マリは全校公開のディベート本番の日をむかえます。そして天皇の戦争責任を一身に背負い、スペンサー先生によって再現されたもうひとつの東京裁判に挑みます。果たしてマリの裁判は、いかなる結論をむかえるのか?
この作品でいいなと思うのは、現在のマリが、母と電話をしながら思い出をたどり、十六歳だった頃の記憶をいったりきたりしながら進むところです。現在、過去、母がまざりあう視点は幻想的で、読む者を魅了します。裁判を通じてマリは天皇についてひとつの結論を得ることになるのですが、それは天皇は独裁者でもなく、意思決定者にもなり得なかったという事実でした。
では、天皇とはなんだったのか?

それはPeapleのための役割であり、役割に応じられて天皇という仮面をかぶり、私こそが人民であるという、なんでもはいる万能の器のようなものだったのではないか、とマリは考えます。天皇は天皇足りえたのではなく、人民の受け皿としての仮面を演じていたのではないか。そしてマリが行きついた天皇論は、戦争責任というよりむしろ天皇のあり方であり、人民の気持ちを汲むのに必要な神のあり方へと変遷していきます。それは、どうして人間には神様が必要なのか、という太古から語られる神話の領域なのかもしれません。 

天皇が仮面ではないかと考えたマリは、ディベートの最中、もうひとつの隠された事実にきづきます。天皇が仮面であるなら、キリストもまた仮面でないのか。天皇は独裁者ではなく、人民の鏡としつくられた虚像で現人神というのは仮面に過ぎなかった。であるならば、キリスト教におけるイエス=キリストもまた人民が必要とした虚像であるはずだ――と。
混迷のなかで、マリの思考の枠は徐々に広がり、広がった思考のなかで、マリは確かなものをつかもうと必死にもがきます。そんなマリの姿がとても印象的です。

とまれ、天皇の仮面性を考えたとき、富国強兵の結果列強へとのしあがった大日本帝国が、戦争遂行のために大きな物語を敷き、国家のアイドルとして担ぎだした主人公が天皇だった。そして昭和になり、宮内庁がもっとも警戒していた陸軍将校が天皇を軽んじはじめ、軽んじたがゆえに戦争誘導のために天皇というアイドルを作り出し、戦争を拡大していったのも、その仮面性故ではなかったでしょうか。陸軍だけが天皇という仮面を理解し、仮面を有効に利用することを知っていた。だからこそ彼等はあれだけ声高に、統帥権干犯を叫んだのでしょう。偶像と強権は、おなじ事象の裏返しだった。そう考えるのは単純すぎるでしょうか。

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