『太平洋戦争七つの謎』
保阪正康
角川oneテーマ
あらすじ
昭和16年12月8日から昭和20年9月2日までの三年九ヶ月が太平洋戦争です。それは六四年にわたる昭和なかで特殊な時代だったといえます。わずか三年九ヶ月の間におこった開戦と終戦、そのいきさつがこの新書に綴られています。
・開戦までの経緯とその要因
・戦時下、国民は戦争を支持していたのか
・山本五十六について
・なぜ人を武器にする戦略が生まれたのか
・日本の軍事指導者と敗戦の理由
・終戦を決めたのは誰か
・本土決戦が行われていたらどうなっていたのか
この時代の空気は異常としかいえないですね。
戦争のつめあと
当時は『不毛地帯』を観ていたこともあり、とりわけシベリア抑留の箇所は興味をもってよみました。敗戦時にソ連に連れ去られた日本軍「捕虜」──正確にはこの語はふさわしくないのですが、約七十万人ほどの将兵・軍属などが、一年半から四年にわたって、強制労働を課せられた事実があります。
すでに日本がポツダム宣言受諾のあとで、本来こうした行為は国際法に違反したもので、なおかつ七十万人近くのうち六万五千人余の人々がシベリアで犠牲になっています。そして、国は、彼らにその補償や労りの言葉を述べないまま現在に至っているのです。
抑留者は、法的にわれわれの立場をはっきりしてほしいと訴訟を起こしていますが、国側には法的に責任はないと主張し、原告の敗訴が続いています。抑留問題ひとつとっても、戦争の爪あとが深く残されていることがわかります。
そして、その爪あとは、だれに怒りをむければいいのかのわからない自問のようにもみえます。
山本五十六
対照的に、この本で一番目をひいたのは山本五十六のくだりです。
ミッドウェー海戦の敗北後、日本軍の進撃は止まり、敗戦を重ねていくことになります。山本五十六は、連合艦隊司令長官として、ラバウルにあったいくつかの海戦を指揮。昭和十八年四月、山本は「い号作戦」実施のために前線の視察を希望していました。もちろん、その前線はアメリカ軍の対戦戦闘機の行動半径内であることもわかった上でのことです。
なぜ敵機に発見されるリスクを冒してまで視察にむかわねばならなかったのか?
その理由は十分納得できるものでした。山本五十六が数少ない一流の軍人といわれる所以がわかったような気がします。
いまにして考えると、日本がアメリカ相手に勝てない戦争に踏み切った前例には日露戦争があったのではないかと思います。日露戦争は圧倒的戦力差を有するロシアに対し、日本軍は旅順、奉天会戦とぎりぎりの勝ちを収め、日本海海戦での勝利を呼び込み、ポーツマス講和条約に持ち込むことができました。
「一年は暴れてみせる」
そういった山本の言の裏には、日本が優勢を保っているうちに早期に講和に持ち込んでほしい。そういった期待があったのではないでしょうか。ただし山本には、戦争終結のサポートがありませんでした。
日露戦争でいえば児玉源太郎のように戦局と政局その両方を動かす人物もいなければ、伊藤博文のような元老もいなかったのです。 外交・講和の準備もなく、なんの保険もないまま、山本は特攻の如く戦地に飛びこんでいったのです。
それを無謀ととるか、覚悟ととるか。
ひょっとしたら山本五十六が最後にみた光景は、どうにもならないという諦めだったのかもしれません。